祖母は大学で陶芸を学んでいる。
普通科を経て、今は研究科に進んだそうだ。
写真に写っている作品はほんの一部である。最近は香炉に凝っているらしい。
私は大学は行っていない。高専だったから、受験なしで短大に進んだようなもので、それきりである。卒業する時は大学に行きたいなんて思いもしなかった。就職してからも、会社で大卒の人を見ても、大学にいったからといって、別段賢くもなく仕事ができるわけでもないし、金と時間の無駄だと思ったこともある。私は機械科出身である。ある大学の機械科を出た女性が以前同じ職場にいたが、初歩的な専門知識のカケラもなく図面もよめず、いったい4年間何をしてたのか、本当に疑問だった。いくらその専門じゃぁない会社とはいえあんまりじゃなかろうか。大学は知識を得るためだけに行くのではないだろうけれど、じゃぁ、遊ぶためだけに行くのか?思い出作りのために行くのか?友達は大学に行かないとできないのか?旦那は大卒で、コイツはいやになるくらい、要領よく賢くて、仕事だってできる。でもそれは大学にいって初めて培われたものではないだろう。能力には学歴なんて関係ないのだ。差が出るのは給料だけなのだ。今まで仕事で関った人たちに関する限り、そう思っていた。
そんなわけで、大学といってもあまり興味もなかった。
そんな時、祖母が、茨城の叔父の家から広島の私の実家に引きとられ、大学に行くという話を聞いた。そして、高専の先輩で、とても尊敬しているある女性から、大学に行きたい、という話を聞いた。
帰省するたび、祖母から大学の話しを聞いた。祖母は90歳を越えていて耳がかなり遠い。補聴器をつけているにも関らず母に隣に座ってもらって通訳のような役目をしてもらって、そうやって授業を受けている。それでも本を読み、色々なもので調べ、作品を作る。祖母は嬉しそうである。
勉強するということは、学びたいという気持ちは、年は関係ないんだなと思った。
高専の先輩であるその女性は、結局今は大学には行っていないが、彼女なら、いつか行くだろう。
知識をお金に例えるのは難しいけれど、彼女なら、学費を払った以上の知識を得て、そしてそれをしっかり自分のものにするだろう。それからの彼女を支えるものの一つになるだろう。
彼女からメールをもらう度、帰省して祖母の部屋に行く度、私もいつか、本当に学びたいものができたら、大学に行きたいと思うようになった。大学でも専門学校でもいい。家で一人で勉強する以上のものが得られるだろう。幾つになっても何かを学びたいという気持ちを持っていられたら。そう思っている。



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